植松聖被告の死刑判決を機に考える自身の倫理観について
こんばんは。
今回はタイトル通り植松聖被告の死刑判決を受けて自身の倫理観・死生観を考え直しそのまとめ的な記事にしようと思います。
差別色が強い内容となっているので苦手な方はご遠慮ください。
ちゃんと警告したので文句などは受け付けませんよ。
さて、まずはこのタイトルでピンと来てない方のためにまずは事件の振り返りをしていきます。
2016年の夏に起こった津久井やまゆり園での通称相模原障害者施設殺傷事件。
この事件では当時施設職員として働いていた植松被告が深夜施設に侵入して入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせたというものです。
その植松被告に今月死刑判決が下されました。
字面だけ見るとなかなかに凄惨な事件ですよね。
私は事件当時相模原市に住んでいたので少し身近に感じました。
あと余談ですが事件当時付き合っていた彼女の名字が植松だったので周囲から雑にいじられたことも記憶に残っている要因の一つです()
さて本題に戻りますが私がこの事件を記事として扱うレベルまでに考えているのはもちろん理由があります。
この植松被告、無差別に殺傷をしたのではなく優生思想に基づく重度障害者の救済という彼なりの一貫した理念があったんですね。
彼によると「障害者の安楽死を国が認めないから自分がやった」とのことです。
そして少なからずそれに共感を覚えた自分がいました。
私自身障害者に対する差別感情がないと言う嘘になります。
なのでその当時の私の感想は「ついに行動に移す奴が出たか」というものでした。
一般的な倫理観から考えたら完全にアウトなのですがここでは正直に自分の考えを吐き出していきます。
私が以前派遣のアルバイトをしていた際、その職場には何人か障害者の方がいらっしゃいました。
その方々の仕事の効率は他の方々に比べて圧倒的に悪い。
本人に悪意がないことは百も承知ですが針の穴よりも心の狭い私はモヤモヤした気持ちを拭えませんでした。
障害を理由に悠々と生きている人間がいると考えてしまうと真面目に勉強して真面目に就職する自分がアホくさく感じてしまいますね。
本人はもちろん障害によって苦しんでいるでしょうが健常者目線でしか物事を見れないのでこういう書き方になってしまいます。お許しください。
ここで視点を変えて植松被告が主張していた「障害者を安楽死させることについての是非」について考えていきたいと思います。
現在の法を無視して自分自身の考えのみで述べれば私的にはありなのかなと思います。
命を天秤にかけること自体間違っているのは重々承知ですが一人の障害者の命と引き換えにその世話や介護などに関わっていた人たちが解放されるのであれば絶対にいけないとは言い切れないのではないかと。
ただこのことに関しては私の身近なところに障害者がいないからこその意見なのかもしれません。
実際兄弟や自身の子供などが障害者だった場合その子を殺してまで自身が楽をしたいという考えができるかどうか…
今回の事件の被害者遺族が憤っているところを見るとやはり自身を犠牲にしてまでも命は尊いものであるということなのでしょうか。
(解放されて嬉しいけど悲しむ演技をしている遺族がいる可能性も否めない)
ただやはり私の意見としては安楽死法はあってもいいと思います。
私が思う安楽死法とは「障害者は安楽死しなくてはいけない義務」ではなく「障害者に安楽死という権利」を与えるものなのです。
その法を制定することによってどのように社会が変わっていくのか。
非常に興味深いです。
これで死亡者増えたら私の勝ちということで何卒宜しくお願い申し上げます。
ここまで障害者の安楽死について考察をしてみたわけですが、障害者に限らず死を選択することが出来る世界って私はすごく魅力的に感じるんですよね。
今では死は終わりというようなイメージが強く悪として捉えられている印象があります。
しかしそうなのでしょうか。
生きていることが辛く苦しく耐えられないような場合にも死を選ぶことは果たして悪なのでしょうか。
死後の世界の存在は実証されていないので死んだ後にどうなるのかは現在誰にもわかりません。
今回は死後人間は無に帰すという仮定で話を進めたいと思います。(個人的な考えにより)
生きて辛く苦しい生活を続けることと死んで何も無くなること。
どちらが当人にとって幸せなのでしょうね。
残念ながら私は自殺願望を抱いた経験がないので予想でしか話すことが出来ませんが後者のような気がしてなりません。
また輪廻転生という考え方もあるわけなのでもしかしたら来世は幸せかもしれないですよね。
人生リセマラというパワーワードを思いつきましたが見なかったことにしてください。
そういった点から世間の人々は死に対して否定的になりすぎているのではないか、と私は思います。
というわけで今回は相模原の事件から自身の倫理観、少し発展して死生観について書かせて頂きました。
偏見が強いことは自覚しているので大目に見てください。
私の考えを一言で言えば「死は救済なのかもしれない」ということです。
ずっとどこかで吐き出したかった内容をここでぶちまけることが出来て非常にスッキリしております。
それではまたどこかで。
初めまして/日本の喫煙規制について
こんばんは。
会話の話題にするのは憚られるような心の奥底に渦巻いているものを吐き出したいと考え執筆に至りました。
第三者が読む想定はしているものの表現や言い回しを自粛するつもりはなく自身の凝り固まった思想に基づく完全に自己満足を目的とした記事となりますので不快に感じましたらその時点で閉じていただいて結構です。
さて、今回は東京オリンピック開催や健康増進法の施行に伴う日本での喫煙規制について喫煙歴4年人間歴22年のひよっこが意見を述べさせていただきます。
上にある通り私は喫煙者でありこれからもタバコをやめるつもりはない欲望に従順なヤニカスです。
最初は格好つけで始めた喫煙がいつの間にか趣味の域を超えて生活の一部となってしまいました。
前置きはここまでにして本題に入っていきたいと思います。
今回の喫煙規制に対して私のスタンスはもちろん反対です。Needless to say.
というか喫煙者ならば誰しも反対側につくことでしょう。…ですよね?
但し今回は「自身が喫煙をするから反対」などどいう軽薄な理由ではなく論理的な根拠に基づいて意見を述べていけたらと思います。
まず今回喫煙規制が実施されることになった経緯からまとめていきます。
「望まない受動喫煙の防止を図るため、多数の者が利用する施設等の区分に応じ、当該施設等の一定の場所を除き喫煙 を禁止するとともに、当該施設等の管理について権原を有する者が講ずべき措置等について定める。」
こちらが健康増進法の一部を改正する法律の趣旨となっています。(https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000469083.pdf)
権原という単語はこの文で学びました。勉強になります。
こちらに関して細かく分解しながら私見を述べていきます。
まず「望まない受動喫煙の防止」の部分。
こちらに関しては全面的に支持いたします。
タバコは現在日本国では合法であるものの人体に悪影響を与えることは言うまでもないでしょう。
喫煙者が勝手に吸って勝手に死んでいくのは知ったことではないですが非喫煙者が望まぬ受動喫煙により害を被ることはあってはならないですよね。
次に「多数の~定める。」の部分。(長いので省略しました。)
要は喫煙の有無にかかわらず多くの方が利用する路上、飲食店などにおいては喫煙所以外で喫煙するなってことです。
まあ至極真っ当に聞こえますよね。
この文に関しては一切反論はございません。
しかし私が問題意識を持っているのは規制の程度に関してです。
具体的に示しますと学校・病院やその他の行政施設においては敷地内完全禁煙、鉄道・飲食店等においては喫煙専用室でのみ喫煙可となります。
問題はこの「喫煙専用室」なのです。
ファミレスやカフェなどの飲食店をよく利用される方は喫煙席と禁煙席を選択できることはご存じでしょう。
しかし現在私がよく利用するそのような飲食店(神奈川県、東京都近郊)では喫煙席の撤廃が進んでおりタバコを吸うことのできる店を探すのに一苦労します。
なぜでしょうか。望まない受動喫煙を減らすために喫煙席と禁煙席が分けられているのにその分けられた喫煙席を撤廃する理由とはいったい何なのでしょうか。非喫煙者を守るのではなく喫煙者を迫害することを目的としているのでしょうか。
2018年の日本における成年喫煙者率は17.9%となっています。(https://www.jti.co.jp/corporate/enterprise/tobacco/data/smokers/index.html)
圧倒的に非喫煙者が多いことが見てわかります。さらに非喫煙者の数に未成年者は組まれていないため数の観点から見たら喫煙者が極端に少ないといえます。
では多数派のために少数派を握りつぶすことは正義なのでしょうか。数の暴力を振るい少数派を黙らせることは果たして民主主義国家のあるべき姿なのでしょうか。喫煙者に残された道は禁煙とテロリズムしかないのでしょうか。
何も「場所を気にせずタバコを吸わせろ」と言っているわけではないのです。
そんな喫煙者の声を無視して喫煙所の撤廃を進める権利は行政にあるのでしょうか。
視点を変えてオリンピック開催から見た喫煙規制についてです。
この箇所を書くにあたって日本医師会さんのページを拝見しました。(https://www.med.or.jp/forest/kinen/current/)
さてご覧になられたでしょうか。
「たばこの煙のない日本」で世界の人々を迎えましょう。
まず日本に世界の人々を迎えるにあたってたばこの煙はあってはならないのでしょうか。
そしてこの画像。
いや偏見強すぎかて。
人のことを言える口ではないのは重々承知ですがこれはあまりにもひどい。
しかし個人的な感想を言っていたところで埒が明かないのでデータを用いてみていきましょう。
先ほど記した通り日本の成年喫煙率は17.9%です。(2018年)
それに比べ現在の世界の喫煙率はどうなっているのでしょうか。
私の力不足により直近に関しては正確な数値を見つけることができませんでした。
しかし「2010年の27.3%から20年には22.8%まで低下する見通し」という記事を見かけました。(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53535850Z11C19A2000000/)
・・・
いやめっちゃ喫煙者いるな!?
日本医師会さんの書き方からして外国人はみんなタバコ吸わないんだから日本もきれいな空気にしようぜっていう風に私は理解していたんですよね。
ところがどっこい蓋を開けてみたら世界人類結構タバコ好きなんですね。
いやどういうことなんだ、私の頭が弱いから混乱しているだけなのでしょうか…
ただこれに関してはあくまでも各国の平均をとったデータに過ぎませんので当然国の間での差は存在します。
つまり先進国は喫煙率は低いけど途上国は高いよってことですね。
それに関しては所得や物価、税金等様々な要因があるかとは思いますが今回のテーマから逸れてしまうので割愛させていただきます。これはこれで個人的に興味があるので機会があれば調べてみます。
本題に戻ると世界の人々普通にタバコ吸ってるぞってことです。
そう考えるとオリンピックを見に来る外国人の方々って当然ですが全員が非喫煙者ではないですよね。
それなのにこんなに急いで禁煙を進めるのはなぜ…?
選手への配慮はあるにしても観光での経済効果を考えたらある程度喫煙に寛容な方がいいと思いますがね。(あと元からいる日本人にも優しくしてくれ)
というわけで今回は喫煙規制の実態とそれに対する私見について書かせていただきました。
データ処理に関してですが自身での分析などは行わず記事をそのまま引用しただけなので正直信憑性は薄いです。
ただ今回は意見をメインにしたかったので大目に見てください。
結局私が言いたいのはもうちょっとお前らタバコに対して寛容になろうぜってことです。
拙い文章でしたが最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。
それではまたどこかで。